平成最後のコラボレーション・Farming soul/吉本大輔(舞踏)×ヒグマ春夫(ライブ映像・美術)/曽我傑(音楽)/早川誠司(照明)/撮影・中村博/会場:アトリエ第Q藝術ホール
平成最後のコラボレーション・Farming soul/吉本大輔(舞踏)×ヒグマ春夫(ライブ映像・美術)/曽我傑(音楽)/早川誠司(照明)/撮影・中村博/会場:アトリエ第Q藝術ホール
平成最後のコラボレーション・Farming soul/吉本大輔(舞踏)×ヒグマ春夫(ライブ映像・美術)/曽我傑(音楽)/早川誠司(照明)/撮影・中村博/会場:アトリエ第Q藝術ホール
中村博「190429 公演リポート 
ヒグマ春夫の映像パラダイムシフトVol.86
舞踏 Butoh : 吉本大輔 Daisuke Yoshimoto
Performance report ヒグマ春夫のこのシリーズも86回目だという。平成・最後のコラボレーションと銘打たれている。副題のようにして「身体空間・Farming soul」とある。英題は「魂の耕しの意か農の心」か。一貫して映像表現にこだわり続け、揺るぎない持続する意志、機知に富んだ巧み、オリジナリティの深さと多様さ、しかもなんと言ってもその豊かな色彩感は他の追随を許さない強度を持っている。映像制作ソフトのテクニックと効果の発見と操作に子供の様に戯れながらの作業中のよろこびが伝わってくるような映像だ。自動化されたようなプロセスが否応なしにプログラムに負っているところも感じさせながらも手だれた造形の多様さとその色彩感が観るものを圧倒し魔術的世界に誘い、ソリッドと柔らかさを持った不可思議な世界に引きんでくれる。

今回は観られなかったが彼自身がパフォーマンスを加えながらの映像表現もあって映像に観られる機知の豊かさとシャープさを別の角度から解剖し開示してくれる。舞台となるスペース奥に6畳用の蚊帳が彼のインスタレーションとして用意されている。上部のほとんどが白で下方の水色にグラデーションで溶け込むような、涼しげにデザインされたかつては一般によく見られたタイプのものだ。部屋の矩形に対して菱形になるように奥ほど高めに手前は低めに吊ってある。映像は左手前と左奥と上方の三方から蚊帳を透過するようにそれぞれ異なった映像を映写する仕掛けで光の色彩が半透膜の蚊帳をスクリーンにして空間を多層化し、その中で踊る身体もまた蚊帳を通して透過されながら実体と影が織りなすようにして多層化され錯綜していく器として用意されている。

ヒグマ春夫の動画の映像はそれだけでも眼を見張るような美しさと多元的な要素を持つもので完成した作品として独立的に豊穣なものだ。しかしパラダイムシフトと名付けられているように独自の完結性が他ジャンルを包容するようにしながら転移していくようなことを望み、あるときは破壊的な解体までも許容していこうとするような大きな悟性のようなものが感じられる。私が知るのは踊り手とコラボの例が多いのだがこのような試みが繰り返された彼の強固な意志と歴史は別の文脈を要する。

観るものにとっては映像と踊りを統合的に観ることは至難のわざで、どちらか興味のある方にピントを合わせ注視すると解離現象に襲われることになる。ソフトアイが重要であると言って解決する問題ではない。分裂的総合力に長ける必要がある。また踊り手にとっても自らが映写体になった状態をフィードバックすることは難しく、自分の体表の色を知覚し変化させる熱帯魚やカメレオンのような(実際はどうかは分からないが)受信感度が要求される。しかし蚊帳や壁面に照射された光と色彩は環境として普通の照明よりも楽しく受け入れやすいと言えるかもしれない。このような映像と身体・踊りとのコラボは他にも手法があって企図としては興味深いのだ実験的意味合いのものが多く、なかなか成功例に巡り会わないのが実情だと思われる。従って映像の方も動く形象にものを言わせるより色彩がより強調された環境としてのスタンスにシフトしたものの方が踊り手により自由を提供できるといえるのではないかというのが現時点での私の感想だ。

曽我傑の録音された音楽は踊りに働きかけるというよりも映像を裏打ちするような、映像に立体感を与えるような環境性が感じられた。従って今回は三つ巴のコラボと言うよりも鋭角的二等辺三角形の2対1の構図になったといえる。
映像と音楽がそういった傾向であったこともあって今回は不思議なくらいに踊り手と映像・音楽とインスタレーションの混じり合いが瞬間瞬間にめざましく美しい光景を生み出し企画の意義を感じさせるものになった。

始まりは、明るい照明の中で吉本大輔は「天然の美」を朗唱しながら客席の間から入場し、蚊帳を中心に周回しながら歌い続ける。若い人には馴染みがないはずだがかつてはサーカスの歌として知られ哀愁を帯びたメロディを持っている。ライブ映像となってるので映写しながらの操作はあったはずだが映像自体と音楽はすでに用意されたもので吉本はリハ無しのぶっつけ本番の即興で踊った。

顔と、研ぎすまされたボディに白塗りを施し、長い白髪を後ろに束ね、白い裾拡がりのボトムに生成りの軽いコートのようなコスチューム、赤い布のテープ状の細切れがアクセントのように体に纏わり、草臥れ摩耗したランドセルを背負って、同じく摩耗したバイク用の黒いグローブを左手にはめている。男物の黒い鼻緒の下駄を右手に持っている(私にはこの下駄の顛末は不明になってしまった)。

歌もしかりだが蚊帳といい、こういった小物達はノスタルジーを誘うようだがそのように収斂していくようなことにはならずどこかフォーカスを曖昧にする働きもある。うがち過ぎかもしれないがデジタルな映像に対するアナログなモノ達の反乱を内包しているようでもある。アナログな身体に味方を付けたといった方が良いか。部屋の照明が徐々に暗転すると蚊帳に映像が浮かび上がり、空間は変幻する形象とあらゆる色に染められていく。

吉本大輔はまずは自己の存在を暗がりからそっと持ち込む様に前面だけを明るみにさらすようにしながらやおら黒いグローブの手をプロジェクターの映像を遮るように差し出したとき、照射体が近接したことにより、距離を持って蚊帳に映写された柔らかい色彩に対して、グローブ上の光の色が濃縮され鉱物質のきらめく色模様を現出することで絶妙な好対照をなし、空間に一段と凝縮と拡散の様な運動性を与えると同時に、吉本自身も手袋のきらめきに厳かな視線を落とし、しばらく見つめたあと、想を得てスウィッチを切り替えたような動きになって中心部の大きな色彩空間に踏み出してくる。

スクリーンと化した蚊帳の外で照射された形象と戯れるようにしながら、またはしなだれた蚊帳をまくるようにしたり蚊帳の裾に埋まるようにしながらついには座像のようになって、それと同時に映像は仏性の光背かオーラのように明るく輝き、蚊帳とともに踊り手を抱きかかえるような大きな拡がりのある色彩になる。蚊帳の中に下半身から入るようにしてうつ伏せになり大きく腕を持ち上げて床を100回ほども叩きつける行為などあったしばし後、モチーフを変化させるように固い側壁面の映像の中へ移動し、胸をさらけ出しながら寄りかかるように凭れたり、映像が覆おう領域から遠ざかるようにしながら草臥れたランドセルを背中から外し愛おしむようにお腹に抱えるとランドセルは映像の色彩を拒絶するように黒く実体を蘇らせ、同時にコスチュームも淡い色に染まりながらも白さが強調される。顔の表情も瞑目したり、拒絶するかのように手を添えて横向きになったりあるいは眼球で背筋を引っ張り上げるように眼を剝いて魁偉な形相の立ち姿を手前に際立たせる。

中心部への移動とともに再びスクリーンと化した白いコスチュームは様々な色模様に染まりながら、光に向かって立った踊り手の背面は乱反射のような作用を受けて前面や周りの色彩を裏切るように鮮やかな赤いガウンになり踊り手に位階の変化を与えるようでもある。
上半身裸になり再び蚊帳の中に入って映像が多層化したなかで自分の姿態は蚊帳を透かしておぼろに浮かび上がらせながら、逆に左後方からのプロジェクターによって右手前にくっきりと写る影と戯れるシーンがヒグマ春夫の狙いにあったもののごとく圧巻であった。

やがて蚊帳から出て前屈の姿勢になりながら腰に付けたサポーターだけの裸体になって固い壁面に照射された色彩の中で研ぎ出された様なソリッドな肢体をスクリーンにして戯れながら踊る。踊ると言っても身体の各部分を色彩の光に晒すようにしながらのポージングの変化といった方がいいような動きだ。ランドセルから白いバレエのチュチュを取り出し軽やかさを同調させるように体に纏い、天の暗がりに向かって夢から抜け出すようにのび上がった姿勢になって終章を待つ。
190505 中村博 ヒグマ春夫の映像パラダイムシフト program A 
Visual paradigm shift Vol.86 of Haruo Higuma 2019.04.29 
アトリエ第Q芸術ホール Atelier No. Q Art Hall 
身体空間・Farming soul 
舞踏 Butho : 吉本 大輔 Daisuke Yoshimoto 
ライブ映像 Live video & Installation : ヒグマ 春夫 Haruo Higuma 
音楽 music : 曽我傑 Masaru Soga 
照明 Lighting : 早川 誠司 Seiji Hayakawa
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